後悔脳内 ~僕の頭の中を公開します~

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アリオ亀有のフードコートで「広島風お好み焼き」を食べながら考えたこと... “ダイバーシティ”という言葉

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ダイバーシティとは、多様な人材を積極的に活用しようという考え方のこと。 もとは、社会的マイノリティの就業機会拡大を意図して使われることが多かったが、現在は性別や人種の違いに限らず、年齢、性格、学歴、価値観などの多様性を受け入れ、広く人材を活用することで生産性を高めようとするマネジメントについていう。 企業がダイバーシティを重視する背景には、有能な人材の発掘、斬新なアイデアの喚起、社会の多様なニーズへの対応といったねらいがある。

ダイバーシティ(だいばーしてぃ)とは - コトバンク

“ダイバーシティ”という言葉

 “ダイバーシティ”という言葉があるのだという。多種多様な価値観を受け入れる、寛容な社会と言うことか。

 “寛容さ”は、何に由来するのか、と個人的な考えを述べさせてもらうとすると、多種多様な文化を知ること。理解すること。その努力を惜しまないこととなるのか。

 多種多様な“ヒト、モノ、コト”を知ること。理解する努力を惜しまないこと。その心を知ろうとすること。

 家や国、社会でも同様に、多種多様なものの心を知る必要があるのではないのか、と考える。様々な文化があることを知る必要があるのだと考えている。

 たとえば、もし、苦しみの中にいるものを虐げてまで、維持しているのだとして、そういったところで、人の心が育まれていくのか、と考えている。そういったところで文化が育まれていくのか、と考えている。

 そういった、情けのないところで、文化が育まれていくのかと考えている。弱きものの声に耳を傾けることをしない、心の無いところに文化が育まれていくのか。

追記①

昨年の11月30日、アリオ亀有に行きました。

以前に何度かお世話になった事がありました。眼鏡をつくった事もありましたか。この日は、城北エリアを見てまわり、途中、亀有に下車、周辺を散策してから、アリオ亀有にお邪魔しました。

モール内を見てまわりましたが、以前と雰囲気が変わってました。ロフトを見つけたので、厚手の靴下や腹巻など、冷え対策グッズを購入しました。手渡しが出来たので良かったです(*‘ω‘ *)

“なんでも受け入れろ”と言いたいわけでは無いが...

 もちろん、“多種多様なものを、なんでも受け入れろ”と言いたいわけでは、無いのだろうと理解している。“ダイバーシティ”とは、そういった言葉ではないと、個人的には考えている。

 以前まででは、汲み取られることの無かった、耳を傾けられることの無かった、様々な価値観を最低限尊重する。

 社会的少数により、立場により、偏見により、汲み取られることの無かった、声に耳を傾ける。その心を最低限尊重することと考えている。多種多様な文化を尊重する。

脳内公開①...

 より個人的な、考えを述べるなら、大事な人が良いと薦めるものなら、できる限り受け入れようと考えている。それは、その人そのものの心だと捉えているから。

 できる限り、知りたいと思うのが自然なことなのだと考えているし、趣味で無かったとしても、付き合うくらいは良いのかなと考えている。

 下述②にもあるが、趣味で無かったコト、モノだったとしても、それを、“教師”や“贈り物”にできるか、否かは、受け取る側の考えかた次第となるし、いくら良いものを紹介したり、良い“贈り物”を選んだとしても、理解が無いのなら、成立しないのかな、と考えている。

 すべて毒に変えてしまう。

ローカルでの伝統文化を育むことに適している

 “ダイバーシティ”とは、ローカルで文化を育むことに適した考え方なのだ、と捉えている。それは多種多様に、ローカルに根付いている文化を尊重することと、同意なのではないのか。

 様々な地域に土着し、そこで人が日々営むことから文化が育まれていく。

 たしかに、そこには様々な家があるのかもしれないし、多種多様なのだろうと考えられる。様々な文化があるのだろうと考えられる。

 そのなかでも、良いものが受け継がれてゆき、伝統となっていくのか。伝統文化となっていくのか。

 それは、家々でも違うように、地域によっても違う。天候もあるのだろうし、地理的条件でも変わってくる。ただ、それは、良し悪しではなく、その地域ごとに受け継がれてきた伝統文化ではないのか。

 良いものが受け継がれてきたのではないのか。

“ヒトモノコト”を知る努力を惜しまないことと一対か

 たとえば、家族を大事にすることのできないものに、他者を大事にできるのか、と考える。地域を大事にできるのか、社会や国を大事にできるのかと考える。

 “ヒトモノコト”を大事にすることをしない、その心を知ることをしないものが、多種多様な文化を理解できるはずもないのだし、自身の好みではないからと、拒むことを良しとし、理解することを惜しむものが、寛容であれるはずが無いのだと考えている。

 いくら、“多様性”や“寛容”を口にしても違うのではないか、その心は違うのではないのか。さまざまな、“ヒトモノコト”を知る努力を惜しまないことと、寛容さは、一対なのではないのか。

 また、無暗に許すことは、寛容とは違うのだとも考える。

脳内公開②...

 より、個人的な考えを述べるとするなら、自分自身を育んだ“ヒト、モノ、コト”を大事に思っている。それは、教師であれ、反面教師であれ...

 “教師” “反面教師”とは、「ギフト」の話にも似ている。

 どちらにも、ならないものは、“毒にも薬にもならない”やつとなってしまうのだろうし、“教師”にするか否かは、受け取る側の問題でもある。

 “毒にも薬にもならない”やつなら、たとえ、本来、“教師”になったであろう事柄でも、“そう受け取ることが出来なかった”と考えられるのだし、良かれと思って、善意を向けていたはずなのに、そう考えることも出来ずに、悪意と捉えてしまう。

 “毒にも薬にもならない”やつが、“毒”を生み出してしまっていると考えている。“薬”をも“毒”に変えてしまっていると考えている。善意を悪意に変えてしまう。誤解している。

かわいそうに思うこと。同情すること。「惻隠の情を催す」

惻隠(ソクイン)とは - コトバンク

四端説 - Wikipedia

惻隠の心は仁の端なり | 創考喜楽 | 教育業界の常識にQuestionを投げかけるメディア